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反逆者達は散開し不規則

パーシーは後に次の様に記録している。「反逆者達は散開し不規則なやり方で、しかし忍耐強く決意を持って攻撃してきた。ただし決して戦闘隊形を組もうとはしなかった。実の所、彼らはなすべきことを良く心得ていた。彼らを統率されない暴徒と見ている者がおれば、それは大きな間違いであることが分かっただろう。」ヒースは、中隊レベルの士官に意図的に散開しながら包囲陣を動かし続けさせ、遠くの部隊には追いついてくるように命令を伝えることに成功していた。しかし、マサチューセッツの民兵にはまだ命令系統がはっきりしていないところがあり、多くは命令を無視し、同じ戦術に従うことを続けた。ピッカリングのエセックス郡民兵は、命令されても発砲を拒否した。ヒースとウォーレンは自ら狙撃兵を率いて前線に出ることもあった。戦闘のこの段階は愛国者軍の命令体系が混乱していたと伝えられている。

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パーシーの部隊がレキシントンからメノトミー(今日のアーリントン)に入ったとき戦闘が一段と激しくなった。新しく加わった民兵が遠距離からイギリス軍を銃撃し、道の傍の土地所有者は自分の領地の中から狙撃した。狙撃手が狙いを定めるために使われた家もあった。ジェイソン・ラッセルは「イギリス人の家はすなわちその城だ」と言って友人を説得し共に戦い彼の家を守るようにし向けた。ラッセルは自家に留まり、その戸口で殺された。彼の友人は追ってこようとした兵士を撃った後、地下室に逃れたか、殺されたかのどちらかである。ラッセルの家は戦闘の時の銃痕とともに今も残されている。ラッセルの果樹園から待ち伏せを仕掛けようとした民兵の1隊はイギリス軍の分隊に捕まり11名が殺された。このうちの何人かは降伏しても殺されたという。

パーシーは部下の制御が効かなくなっており、オールド・ノース・ブリッジでの死体や見えない敵からの遠距離攻撃による被害に対して報復するために残虐行為を働くようになっていた。ピトケアンやスミス隊の負傷した士官の証言によれば、ボストンに近く人口も多い町になって、パーシーは民兵達が石壁や樹木、建物の陰から狙い撃ちしてくることを理解した。パーシーは分隊を使ってそのような場所から民兵を追い出すようにし向けた。

分隊の若い士官がその命令を誤解しており、兵士が荒らし回り、中にいる誰彼となく殺害するのを止めようとしなかった。酒場の地下室に隠れることを拒んだ無邪気な酔っぱらい2人が、その日の出来事に絡んでいたと疑われて殺された。宣伝価値をあげる為に植民地の者が荒らしや放火について大げさに証言している(植民地政府から補償を得る目的もある)が、道路沿いの多くの酒場が荒らされ酒類を奪われたのは事実である。奪った方が酔っぱらってしまうこともあった。教会のミサ用の銀器が盗まれたが後にボストンで売られて見つかった。メノトミーの住人サミュエル・ホィットモアは3人の正規兵を殺したが分隊に襲われて虫の息となり放置された(ホィットモアはその後仲間に救われ98歳まで生きた)。他の町よりもメノトミーで多くの血が流されたという。ここで愛国者は25名が殺され9名が負傷した。イギリス軍は40名が戦死し、80名が負傷した。それぞれこの日の被害の半数に上った。

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2009年04月30日 10:56に投稿されたエントリーのページです。

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